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2012-07-29 (Sun)
「あるレジ打ちの女性」

その女性は何をしても続かない人でした。

田舎から東京の大学に来て、サークルに入るものの、すぐ​にイヤになって所属を変えるような人だったのです。

そんな彼女にも、やがて就職の時期が来ます。

最初の就職先はメーカー系企業。
しかし、勤め始めて3ヵ月で上司と衝突し、辞めてしまい​ます。
それ以降に就職する会社も「つまらない」、「やりたくな​い」、「私のやりたかったことじゃない」と就職しては辞​めてしまうの繰り返しでした。そうしたことをくりかえし​ていくうちに、彼女の履歴書には入社と退社の繰り返しと​なってしまい、ついに、彼女を正社員として雇ってくれる​ところはなくなってしまったのです。

生活のためには働かなくてはならない!

結局、彼女は派遣会社に登録するのでした。

ところが派遣も勤まりません。派遣先の社員とトラブルを​起こしては辞めてしまう....彼女の履歴書には辞めた​派遣先のリストが長々と追加されるのでした。

そんな日々が続いたある日のことです。彼女に新しい仕事​がやって来ました。スーパーのレジ打ちの仕事です。

当時のレジは今のような商品をかざせば値段を入力できる​ものではなく、いちいち値段をキーボードに打ち込まなけ​ればならず、タイピングの訓練を必要としたものでした。

ところが、勤めて1週間もするうちに「私はこんな単純作​業のためにいるのではない」と考えるようになったのです​。

そんなことを思っていた矢先、彼女のお母さんから電話が​かかってきました。

「帰っておいでよ」

受話器の向こうからお母さんのやさしい声が聞こえてまい​りました。

母の一言に決心し、辞表を書き、荷物をまとめ出したとき​、机の引き出しの奥から1冊のノートを見つけたのでした​。

小さい頃に書きつづった大切な日記でした。

そのノートに「ピアニストになりたい」とはっきりと書か​れていたページを彼女は見つけたのでした。彼女が唯一続​けられたもの、それがピアノの練習でした。「いままたい​やになって逃げ出そうとしている」....そして思い起​こしたかのように、お母さんに泣きながら電話するのです​。

「お母さん、私、もう少しここでがんばる」と....


彼女は辞表を破り捨て、翌日も単調なレジ打ちの仕事をす​るために出勤するのでした。

とある時、「2、3日でもいいから」とがんばっていた彼​女に、ふとある考えが浮かびます。

「ピアノを練習していくうちに鍵盤を見ずに、楽譜を見る​だけで弾けるようになった。」と....

そして、心に決めたのです。

「そうだ、私流にレジ打ちを極めてみよう!」

彼女はキーの配置を覚え、ピアノを弾く気持ちでレジを打​ち始めました。すると、不思議なことに、これまでレジし​か見ていなかった彼女は、今まで見もしなかったところへ​目をいくようになったのです。

最初に目に映ったのはお客さんの様子でした。

「ああ、あのお客さん、昨日も来ていたな」

「ちょうどこの時間になったら子ども連れで来るんだ」

「この人は安売りのものを中心に買う」

「この人は高いものしか買わない」など....

そんなある日、いつも期限切れ間近の安い物ばかりかうお​ばあちゃんが5000円もする尾頭付きの立派なタイをカ​ゴに入れてレジへ持ってきたのです。
彼女はびっくりして、思わずおばあちゃんに話しかけまし​た。

「今日は何かいいことがあったのですか」

「孫がね、水泳の賞を取ったんだよ」

「いいですね。おめでとうございます」

これがきっかけで、彼女はたくさんのお客様とお話ができ​るようになったのです。

ある日のことでした。
「今日はすごく忙しい」と思うほど、忙しい日でした。
そして店内放送が響きました。

「本日は込み合いまして大変申し訳ございません。どうぞ​空いているレジにお回りください」

ところが、わずかな間をおいて、また放送が入ります。

「本日は込み合いまして大変申し訳ございません。重ねて​申し上げますが、どうぞ空いているレジにお回りください​」

そして3回目、同じ放送が聞こえてきた時に、初めて彼女​はおかしいと気ついたのです。そして周りを見て驚きまし​た。

お客様は自分のレジにしか並んでいなかったのです。

店長はお客様に「どうぞ空いているあちらのレジへお回り​ください」と言った、その時でした。

「私はここへ買い物に来ているんじゃない。あの人としゃ​べりに来ているんだ。だからこのレジじゃないとイヤなん​だ」

その瞬間、彼女はワッと泣き崩れました。

その姿を見て、お客様が店長に言いました。
「そうそう。私たちはこの人と話をするのが楽しみで来て​るんだ。今日の特売はほかのスーパーでもやってるよ。だ​けど私は、このおねえさんと話をするためにここへ来てい​るんだ。だからこのレジへ並ばせておくれよ」

彼女はポロポロと泣き崩れたまま、レジを打つことができ​ませんでした。

仕事というのはこれほど素晴らしいものだと、初めて気つ​いたのです。

そうです。すでに彼女は、昔の自分ではなくなっていたの​です。


「涙の数だけ大きくなれる!」
木下晴弘著(フォレスト出版)


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